釜ヶ崎の体験
―――貧しい人は幸い?!
十年前研修で二週間、日雇い労働者の釜ヶ崎という町で、ボランティア団体の手伝いをしました。支援者から贈られてきた衣類の分類作業で、寒い2月の最中、北側のガレージの中と、道沿いで行っていました。
昼近くになると一人の老齢の労働者(おっちゃん)が、笑みを浮かべながら近寄って来、一言、「てー変だな」と声をかけられました。私は「まぁ」と。翌日も、昼頃また来ました。この時刻に、ふらふらしているという事は、今日の仕事がないということです。つまり、ここ釜ヶ崎では日雇いの町ですから、昼頃ふらふらしているという事は仕事に就くことが出来なかった事を意味し、今日の日当はないことを意味します。
そして、そのおっちゃんは、三日目の昼頃また来て、私に湯気が立っているゆで卵を差し出すのです。その方が、たぶんあるだけのお金で、そのゆで卵を2個買ってきたのです。顔には笑みを浮かべ、私にその湯気がでているゆで卵を差し出し、「食え!」と。言葉は乱暴でも、その眼差しは実に素敵なものでした。私は昼頃でお腹が空いてはいましたが、「いいです。」というと、近くで作業をしていた専従のボランティアの方から「受け取って食べて下さい。」と言われました。それで、私はその湯気の出たゆで卵を頂きました。
そのときの、おっちゃんの眼差しが、とても嬉しそうに私には写り、何かを頂いたような体験をしました。それは、正にキリストの眼差しでも見たようでした。きらりと輝く眼差しは、私は、とてつもない温かさと、何か不思議な雰囲気に包まれ、とてつもない平安に包まれるのです。
本当に、「貧しい人は幸いである。神の国はあなたがたのものである。」(ルカ福音書6章20節b)という聖句の深い意味を示されたようでした。
釜ヶ崎では炊き出しをしてますから、餓死はしないでしょうが、豊かな生活をしている私が、おっちゃんの状況になったとき、果たして自分の全財産の半分を隣人に与えることは出来るだろうかと疑問に思いました。本当に、なんて幸いな人だろう。
あのときの眼差し、それは忘れがたいもので、今でも瞼の裏に焼き付いています。その眼差しを思い出す度に、何か、慰めと勇気と力が与えられるようで、私にとってまさにキリストの眼差しのようでした。 |