「説教作り」
よく信徒の皆様から「神父様はいつも、どのように説教を作っているのですか?」と質問されます。日曜日、ミサに集えば必ず聞くことになる司祭の説教、それをいつ、どうやって作っているのか、信徒の皆様には興味のあるところでしょう。そして私にとっても、毎週必ずやって来る主日ミサの説教を作ることは、生活の中で非常に大きなウェイトを占めています。いかに皆様の一週間の「生活の糧」となる話をすることができるか、それを考えると決して気を抜くことはできない仕事です。
よく質問されるのは何曜日ごろから取り掛かるのか。それは特に決まっていません。その週の予定によっても変わってきます。前の週のミサが終わった瞬間から、あれこれ考えることもありますし、土曜日になってやっと書き始めることもあります。先ず初めに、説教する私自身がみことばをよく味わっていなければ話になりませんので、三つの朗読箇所を繰り返し読みます。次に『聖書注解書』の類を片っ端から当たって、参考にします。やはり聖書の学者さんたちの意見を聞くのは重要です。しかし、『注解書』に書いてあることをそのまま喋るのであれば、信徒の方々は別に司祭の説教を聴かなくても、同じ本を読めばいいわけで、ここからいかに自分の言葉で話すことができるか、つまり「オリジナル」な説教を作り出せるかが、司祭の勝負どころです。知識、経験、自分の持っているあらゆるものを総動員して書き始める(正確に言えば、パソコンを打ち始める)のですが、元々自分の持っているものが乏しい二年生司祭、流れる川のように作業は進んでくれません。反対に、毎回の如くパソコンを打つ指がフリーズします。
どうしても書けない時、もはや部屋に居続けてもアイデアは生まれてきません。そのような時、私は「放浪の旅」に出ます(と言っても「山手線内」程の範囲ですが…)。電車やバスに乗り、また通りを歩いて、人との出会い、出来事との出会いを体験しに行くのです。この「出会い」の体験が、私の説教作りに刺激を与え、糧を恵んでくれます。「出会い」の中には、様々な神様の「サイン」が隠されていると思います。「旅」から帰ると、パソコンを打つ指がよく動いてくれるのです。
このように、説教作りに関しては、毎週「産みの苦しみ」を味わっています。しかし何とか出産を終え、毎日曜日、皆様に赤ん坊を「お披露目」するとき、親として誇りを持って、そして最大限の愛をこめて「我が子」を紹介したいと思っています。たとえ、あまり器量良しではなかったとしても…
さあ、また「お披露目」の日が近づいてきましたが、赤ん坊はまだ生まれてきません。というわけで、今日も「放浪の旅」に出発する助任司祭なのでありました。 |