伴 走 者
目の不自由なマラソンランナーがコースから外れないで走ることができるように、側に付き添って走る人がいる。素人目にもこの役はとても難しいのだろうなとわかる。ただ走ればいいわけではなく、相手のペースで走らなければならないからだ。自分のペースではなく、相手のペースで走るのはさぞや忍耐のいることだろう。また、走っている間中、相手の体調を気づかわねばならない。わたしも伴走をしている。と言ってもマラソンではない。復活祭に洗礼を受けるために準備をしている人たちの伴走である。
毎年、五月のゴールデンウィークが終わる頃、洗礼を望んでいる人たちの講座が開講される。ありがたいことに毎年希望者がやってくる。さまざまな形での神さまとの出会いがあって、勇気を出して教会の門を叩くのだろう。
わたしの講座は毎週木曜日の夜の七時から行われる。その年によって顔ぶれも雰囲気も違う。人数はだいたい十人前後である。このクラスに出席できない人もいる。そのかたには都合のよい時間に来ていただいて個別に講座をしている。これは一対一なので相手の反応を確認しながら進ことができるのでありがたいしやりやすい。しかし、十人前後のクラスとなるとそうはいかない。気をつけているつもりでも授業のようになりがちである。十人いれば十通りの神さまとの出会いがあったわけで、十人が求めていることも十通りなのである。その一人ひとりの求めに応えることは残念ながらできない。講座の内容がつまらなくて、また、求めているものを見つけることができなくて講座から去って行く人もいる。申し訳ないと思う。今でもときどき何人かの顔が浮かんできて胸が痛む。
そのような駄目伴走者であるにもかかわらず、我慢しながら走ってくれた人たちが復活徹夜祭に洗礼を受ける。四旬節に入り彼らは最終的な準備をしている。わたしは毎年、四旬節が近づいてくると洗礼志願者たちにこう話す。「皆さんはいま、陸上競技にたとえるなら走り高飛びの助走をしているところです。わたしは縁があって皆さんの助走にお付き合いして一緒に走っています。けれども、わたしが一緒に走れるのは『踏み切り』の手前までです。踏み切りで飛ぶか飛ばないか決心するのは皆さんです。でも、その時にはきっと皆さんがもうすでに出会ってる神さまが『飛びなさい』と背中を押してくださるはずです」と。
他の人たちと一緒に準備をしてきた講座受講者のなかには今も洗礼を受けるかどうか真剣に悩んでいる人もいる。自分の生き方にかかわることだから悩んで当然だ。相談されたが、受けなさいとも、受けるのを待ちなさいとも、こちらは何も言えない。自分で決断するしかないのだ。神さまに信頼してお任せするしかない。どうぞ、そのかたのために祈ってください。
さて、そろそろわたしの伴走も終わりに近づいてきた。うれしいような、少し寂しいような複雑な気持ちである。ところで、洗礼志願者たちはとっくに気がついてると思うが、自分が神さまに出会ったそのときから、本当の伴走者がいつも側にいてくれたのだ。そしてこれからも一緒にいてくれる。洗礼志願者たちはそのお方とともに新しいスタートラインに立とうとしている。 |