かっこいいボケ方
こんな話を聞きました。
戦後の混乱期、O神父は困窮者に配給するための物資を、修道院を廻って集めていました。ある修道院で物資をたくさん受け取り、お礼を言って辞したところが、しばらくしてひとりの修道士が「神父さ〜ん、これも持って行ってよ〜」と叫びながら追いかけてきました。見ると腕いっぱいに食料を抱えています。やっと追いついたその修道士は腕の中のものをどさりとO師にあずけると、「ちょっと待ってて」と言い残して修道院に戻り、再び腕いっぱいの物資を持って来て神父に差し出したのでした。それは自分たちのための蓄えのほとんど全てだったようです。
その後も修道士は、O師が訪ねるたびにありったけの物資を「これも持って行ってよ、これも、これも」と拠出してくれました。
やがて何十年もたって、修道士も歳をとり、ボケて寝込むようになりました。様子を聞いたO師はお見舞いに彼の病床を訪ねました。修道士は、訪問者が以前親しかったO師であることも全く分かっていない様子でした。ぎこちない会話が続き、間がもたなくなってきたので、O師は挨拶して部屋を出ようとしました。その時、背後から修道士が大きな声を上げました。
「これ、持って行ってよ!」
振り向くと、修道士は枕元にあった見舞いの品や身の回りのものを全部つかんで、O師に差し出していたそうです。
ボケてまで自分のものをひとにあげようとするなんて、こんなかっこいいボケ方があるでしょうか。修道士のそれまでの行動が欺瞞や虚栄心からのものではなかったことをはっきりと証ししています。あるいは、修道士の生き方が長い間に結晶して彼の本性となったのかもしれません。どうせボケるなら、この修道士のようなかっこいいボケ方をしたいものです。
しかし、私には絶対無理です。私がボケたら、他人のものを自分のものだと言い張ったり、「ものがなくなった!盗まれた!」と騒いだりするに違いありません。本性があらわになってしまうと思うと今から恥ずかしくなります。
ただ、こんな私にもひとつだけ希望があります。それは、かっこ悪いボケ方を今から恥じてこれまでの生きざまを悔いる私を、神様は決して見捨てられない、ということです。どんな恥さらしな、どんなみっともない人生であっても、主に立ち返りさえすれば、主は喜んで迎え入れて下さる、これが私たちの信仰です。取り返しのつかない過去と思い通りにならない未来の狭間で、今できることといえば、そんな慈しみ深い天の父をただただ信じることしかないのです。そして、ただただ信じさえすればいいのです。 |